米国ウォーターフロントの再生

アメリカの水辺環境をめぐる歴史や近年の動向は、日本人にとってたいへん参考になる点があります。アメリカのウォーターフロントでは、20世紀末以降、エキサイティングな都市再生計画が進められてきました。これまで、工業用に使われていた水辺空間が、レクリエーション資源として、大衆の手に戻ってきました。

工場の衰退

従来、アメリカなどの産業国のウオーターフロントには工場群があり、市民は近づけませんでした。しかし、皮肉なことに、1970年代以降に起きた米国の製造業(第2次産業)の斜陽化と共に、これらの工場用地が、河川公園、遊歩道、水上レストラン、しゃれたマイホームなどに変身しました。人と水の親密な関係が復活した地域が出てきたのです。

戦後日本の水辺整備マスタープラン

日本で水辺を整備する時、問題になるのは何でしょうか。計画論、手続き論の立場からいえば、戦後の日本の水辺整備のマスタープランは、欧米のようにきちっとしていませんでした。国の土地利用計画法の中でも、整備開発保全の方針というあいまいな文章と図面がついているだけでした。

親水、利水を含めた複合的なものへ

本来、アメニティー(快適さ)のマスタープランは治水といった単目的なものでなく、親水、利水を含めた複合的なものであることが望ましいはずです。

河川を管理する役所の責任問題

日本の水辺環境整備の最大の阻害要因は、河川の管理責任の問題だという意見があります。つまり、親水に重点を置いて水辺を整備すれば、どうしても堤防をコンクリートでなく土手にしたり、だれでも川に入れるようにフェンスを設けることもやめます。その結果、決壊や水死などの事故が起きたら、役所の責任問題になります。

米国では「泳ぐときは自己責任」

アメリカに行くと、川のあちこちに「泳ぐ時は、自分の責任(自己責任)で泳いで下さい。当局は、責任を負いません」という立て札にぶつかります。欧米の川は広くてゆったりしています。急流が多くて少しの雨ではんらんする日本の河川とは違います。とはいえ、わが国で川に「自己責任」というような立て札をたてたら問題になります。

フランスの公園や川にはフェンスがない?

日本には河川管理責任という言葉があります。すぐ人を訴える訴訟社会のアメリカでも、自治体の河川管理責任を問うということはあまりありません。フランスもアメリカと同じです。パブリックスペースでは、自分の責任で身を守らなくてはなりません。だから、フランスの公園や川では、日本に当然のようにあるフェンスは、あまり見当たりません。

空き缶ゴミなどの汚染も問題

水辺に市民が寄りつかなくなったのは、コンクリートの護岸ができたからだけではありません。空き缶などのゴミの投げ捨てで、水辺が汚れているのも一因です。水に親しむなら、まず川に対する市民のモラルを高めないといけません。

学校教育で川の掃除を

自分の家の前の道路や水辺を、行政に頼らず自分たちで掃除する。日本には近代まで、そんなすばらしい習慣がありました。学校教育の中で、川を大切にする心を子供に教えないといけません。

「きれいな水」こそ大事

水辺の整備というと親水公園や遊歩道などの施設をつくったり、水辺でのイベントがまず考えられます。しかし、水辺の最大のチャームポイントは、きれいな水の流れです。まず、川に目を向け、自分の周りの水をきれいにすることから始めましょう。